<資料> 日本厚生協会の歓喜力行団への眼差し −『厚生の日本』を手がかりとして− A study on the Japanese recreation association's perspective on the Kraft durch Freude : Analysis of“Kosei-no-Nihon” 都 筑   真 Makoto TSUZUKU Abstract  The purpose of this study was to clarify the Japanese recreation association's perspective on the Kraft durch Freude (KdF) through analysis of“Kosei-no-Nihon”. The Articles about KdF published in“Kosei-no-Nihon”emphasized the practice activity over the purpose and the organization structure of the KdF.“Kosei-no-Nihon”reported the practice activity of the KdF as follows : 1) The Practice activity of the KdF covered widespread areas from various types of physical activities to the education to disseminate Nazi ideology. 2) Excepting domestic and foreign trip, the KdF continued the practice activity even in wartime. 3) Soldiers were provided opportunity to appreciate music and drama, while disabled soldiers were offered opportunity for physical activity and education. 4) The KdF attempted to make the Germans gain strength through joy, not refusing to get joy from leisure activity.  Keywords :Japanese recreation association, Kraft durch Freude,“Kosei-no-Nihon” T. はじめに  厚生運動は,1930年代後半から1940年代前半にかけて,日本厚生協会<上付>(1)が中心となって展開したものであり,体位向上の性格を持ちつつ,戦時下の状況に余暇生活の健全化によって対応しようとしたレクリエーション運動であった<上付>(2).日本の厚生運動のモデルとされたのは,イタリアの「ドーポ・ラヴォーロ」(Opera Nazionale Dopolavoro,「労働の後」の意,以下OND)とドイツの「歓喜力行団」(Kraft durch Freude,以下KdF)という余暇組織であったと言われている<上付>2)3)9).  ONDはB. ムッソリーニがファシズム独裁を宣言した1925年5月に創設された,国民の余暇を組織化することを課題とした組織であり,スポーツ,旅行,芸能,職業訓練,社会救済事業などの活動を展開していた.また,KdFは1933年11月に「ドイツ労働戦線」(Deutsche Arbeitsfront,以下DAF)の一部局として創設された組織であり,映画,演劇,音楽会,スポーツ,旅行などの余暇を利用してナチ党に対する国民の同意を調達し,民族共同体への統合と労働能率の向上を目指していた.  しかしながら,こうしたイタリアやとドイツの厚生運動の組織を,日本の厚生運動の中核団体である日本厚生協会がどのように見ていたのか,そしてどのようにモデルとしたのかについての研究の蓄積は僅かである.こうした点に着目した研究としては,都筑(2013)<上付>14)や田野(2009,2011)<上付>10)11)の研究が挙げられる.  都筑(2013)は,日本厚生協会の機関誌『厚生の日本』で紹介されたONDの目的,組織構造,実践活動を明らかにすることによって,日本厚生協会のONDへの眼差しを検討している.都筑によれば,『厚生の日本』はONDについて次のように報じていたという.1) ONDは,「明日の勤労」に向けた活力を養うための余暇の善用という理念の下で,体力の増強や精神的な慰安に繋がるような娯楽を勤労者に提供していくことを目的としていた.2) ONDは,ファシスト党書記長を組織の長とし,体育部,旅行部,教育部,福利部などによって構成されるOND中央本部の指導監督の下で,イタリア各地にある2万以上のOND地方支部が実践活動を運営した.3) ONDの実践活動は,「団体的スポーツ」を中心として様々な種目を行うスポーツ,四季に応じた旅行から,演劇や音楽の観賞と実演,勤労者の保健衛生管理に至るまで,広範な領域に及んでいた.ただし,上記のように紹介されたONDを日本厚生協会がどのようにモデルとしたのかについては明らかにされていない.  田野(2009)は,KdFの先進性を世界にアピールする舞台となった世界レクリエーション会議<上付>(3)が日本の厚生運動に及ぼした影響について考察していく中で,日本厚生大会<上付>(4)における日本厚生協会幹部のKdFに対する見解を取り上げている.田野によれば,KdFを日本の厚生運動のモデルとすることに関しては日本厚生協会幹部の意見は一致していたものの,KdFが「多面的な性格をもっていたため,日本人の評価も多様なものとならざるをえず」,「心身鍛錬を重視する立場や,休養・娯楽の重要性に注目する立場などが複雑に入り混じり」,それ故「ドイツの模倣に徹することも,日本独自の方向性を打ち出すこともできないまま,ばらばらな見解の寄せ集めに終わった」という.  また,田野(2011)は,KdFに対する日本側の見解と,日本の厚生運動に対するドイツ側の見解を検討していく中で,『朝日新聞』など日本の新聞各紙に掲載されたKdFに関する記事を紹介している.田野によれば,日本側では「厚生問題に関してドイツに範を仰ぐ必要性を認めつつも」,どのように範を仰ぐかに言及することなく,「上意下達」「滅私奉公」などの「『日本精神』の称揚によって煙に巻いてしまうかのごとき見解」がたびたび掲載されたという.しかし,その一方で,KdFを賞賛するだけでなく,「べからず主義」に代表される日本の「過度な娯楽抑制策に批判」を向ける際にKdFの先進性を引き合いに出すような新聞記事も存在したという.  田野の研究からは,KdFを日本のモデルとするべきであるという点を除けば,KdFに対する見解は日本厚生協会幹部の間でも,新聞各紙においても様々であったことは見て取れるが,モデルにする際に重要となるKdFの目的,組織構造,実践活動を日本側,特に日本厚生協会がどのように捉えていたのかについては明らかにされていない.  本稿では,日本厚生協会の機関誌『厚生の日本』に掲載されたKdFに関する記事の中で,KdFの目的,組織構造,実践活動がどのように報告されたのかを明らかにし,日本厚生協会のKdFへの眼差しを浮き彫りにしていく.本稿は,日本の厚生運動がONDやKdFから受けた影響,あるいはそれらとは異なる日本の厚生運動の独自性を解明するための基礎研究としての意義を持つ. U. 『厚生の日本』について  日本厚生協会の機関誌である『厚生の日本』は1939年10月に創刊され,1944年10月まで毎月発行された雑誌であり,論説,時評,講座,随筆,読物,グラビア,広告などで構成されていた.『厚生の日本』の頁数は1941年までは160〜180頁,1942年と1943年は120〜140頁で推移していくが,日本の戦局が悪化していく1943年12月号から頁数は著しく減少し,1944年に入ると30頁程の小冊子となり,内容も貧弱となる<上付>8).  また,『厚生の日本』の記事内容は@厚生運動の総論,A勤労と厚生,B婦人の勤労問題,C地域の厚生運動,D保険・福祉,E施設・空間,F具体的な厚生活動,G外国の厚生運動の8つに大別される<上付>8).本稿で取り上げるのは外国の厚生運動として紹介された以下のKdFに関する記事である.この4つのKdFに関する記事の中で,KdFの目的,組織構造,実践活動がどのように報告されていたのかを明らかにしていく. <『厚生の日本』に掲載されたKdFに関する記事> @保科胤「独逸の厚生運動」(1939年10月号)<上付>5) A保科胤「戦争と慰楽 銃後ドイツ国民生活の一断面」(1940年9月号)<上付>6) B津川主一「独逸に於ける国民生活と音楽」(1941年3月号)<上付>12) C権田保之助「戦時下に於けるK.d.Fの活躍」(1941年4月号)<上付>4) V. 『厚生の日本』にみるKdFの目的  記事@は,「勤労国民大衆の文化生活への参加と自らの生活向上とに対する要求,彼等を健康且楽しい生活に導き,彼等に活動力を與える政治的必要」から設立されたKdFの目的が紹介されている.記事@によれば,「職場の美化と,余暇の楽しい且健康なる利用とによって」,「独逸勤労国民大衆の生活の歓びと,健康と,そして能率とを増進」させていくことがKdFの目的であるという.国民の働く職場の環境を整備し,余暇には国民の生活に対する「歓び」を高めるような活動を提供することによって,健康と労働能率といった面での国民の力を高めていくという組織の名称に沿った目的をKdFが掲げていたことが記事@から見て取れる. W. 『厚生の日本』にみるKdFの組織構造  DAFの責任者であったR. ライがDAFの下部組織として創設したKdFは,「スポーツ」「旅行・ハイキング・休暇」「宵の余暇」「ドイツ民族教育事業」「労働の美」の部門によって構成され,これらの部門の活動はナチ党の組織と同様に,大管区,管区,地方,拠点に分割され,上部組織の指導者が下部組織を指導するというシステムを採用していた<上付>1).  こうしたKdFの組織構造については,『厚生の日本』のKdFに関する記事ではほとんど言及されておらず,記事@の中に「KdF団は一九三三年十一月末設立された.独逸勤労戦線〔DAF〕が生みの親であり,その最高指導者ライ博士が団長である」ことが記されている程度であった. X. 『厚生の日本』にみるKdFの活動 1. 「スポーツ」部の活動  記事@は「スポーツ」部の特色として,「専ら楽しく且大衆向きなスポーツを狙い,技術の巧拙は問わず,参加の容易,費用の低廉」を挙げており,より多くの国民へのスポーツの門戸を開放していることが窺える.こうした点は実施される種目からも見て取れる.「スポーツ」部では「個々のスポーツに限ることなく,凡ゆる種類の体育運動を考慮し,乗馬,撃剣,庭球,ゴルフ」なども実施されていることが記されており,参加者が特定の種目だけでなく,様々な種目を行えるようになっているという.また,記事@が発表された1939年10月の時期に「特に重要視されて来たものは工場スポーツであり」,工場での「スポーツクラブの結成」が奨励されていることが述べられているが,これは「産業従業員の体力向上」と「作業上の事故及び危険の防止」を意図したものであるという.KdFは組織の目的の一つに労働能率の向上を挙げているが,この時期に「工場スポーツ」が重視されたのは,特に工場での労働能率を向上させていくことが重視されたためであろう.  「スポーツ」部が「工場スポーツ」を重視していたことは,記事Cが報じた工場関連のスポーツクラブ数からも窺い知れる.記事Cによれば,「工場・鉱山等の事業場に於ける職場スポーツ団の数は一九三八年に約一萬四千を算したが,今日では二萬を遙かに超えている」という.また,記事Cでは傷病兵を対象としたスポーツ活動が紹介されており,傷病兵慰問事業として「病院で行われる体育競技」は,「負傷者の状態を十分考慮して考察された各方面の種目が」実施されており,それは傷病兵の「健康の回復と全能率の再獲得」を意図したものであったという. 2. 「旅行・ハイキング・休暇」部の活動  記事@は,休暇に「正しく休養して明日のため新たなる活動力を涵養する」という「観点から休暇利用の国内及び国外旅行,小旅行及び徒歩旅行がKdF団によって組織」されたことを紹介しており,旅行のために「最近五年間に三千万人以上の参加者を獲得」したことを記している.記事@によれば,外国旅行の主な行先は軍事同盟を結んでいたイタリアであり,ポルトガル,北アフリカ沿岸,ギリシャなどへの「海洋旅行はすべてKdF専属船によって」実施しているという.  記事Cは,戦時に伴う「旅行・ハイキング・休暇」部の活動の変化について言及している.記事Cによれば,戦時下において「旅行が交通上の取締や軍事上の必要から,殆んど全く停止されざるを得ない状態」となったため,「遊歴を盛んにするという事で幾分の補いが付けられている」という.「遊歴」とはハイキングを指していると考えられるが,このハイキングが戦時中に制限された国内外の旅行に代わるものとして奨励されたのであろう.また記事Cは,海洋旅行に利用されていた「K・d・F船は病院船として海軍に帰属し」,ポーランドやノルウェーとの戦争において活躍したことも報じており,旅行船の軍事利用は旅行,とくに海洋旅行が制限される一因となったことが見て取れる. 3. 「宵の余暇」部の活動  記事Aは,演劇や歌劇において「特に勤労者のための観劇日が設けられ,頗る安い入場料(普通の三分の一以下に特別割引)で勤労者階級の総見が」毎週1〜2回行われていることを報じており,「勤労者階級」に配慮した演劇や歌劇の機会を設けていることが見て取れる.同様の配慮は1940年のワグナー音楽祭においてもなされており,記事Aによれば,この年のワグナー音楽祭には「一般の観衆を一人も入場させず」,「専ら戦線の兵隊と銃後の第一線に働く労働者が団体観劇した」という.記事Bもこの祭典に言及しており,「戦線に活躍した兵士,並びに軍器製作に疲れた労働者達」のために開放されたことを記している.  また,兵士への配慮は軍隊慰問という形でもなされており,記事Aは,KdFが演劇隊や楽団を派遣し「戦争勃発以来今日[1940年9月]までに軍隊慰安の会を催すこと十万回以上,その参加人員は総計三千万人を超える」ことを紹介している.軍隊慰問については記事Cも触れており,1940年4月に西部戦線に攻勢をかける前の2〜3か月の間に,KdFが「月平均一万五千回の軍隊慰問の催し」を行ったこと,そして1940年6月のパリ占領以降はデンマーク,ノルウェー,フランスなどの占領地に演劇隊や楽団を派遣し,占領地内で5万5000回の軍隊慰問の公演を実施したことを紹介している.  ワグナー音楽祭での兵士に対する優遇や軍隊慰問からは,「宵の余暇」部の活動が国内外の戦線で戦うドイツ兵をも対象としていたことが見て取れる. 4. 「ドイツ民族教育事業」部の活動  記事@は,「KdF団の公民教育は,ナチス世界観を国民に植付けんとするものであり,活動の中心は公民教育道場,即ち夜間学校」であることを記しており,「ナチス世界観」の注入という「ドイツ民族教育事業」部の目的と「夜間学校」が活動の中心となっていることを紹介している.記事@によれば,「夜間学校」では人種学,遺伝学,政治学,ドイツ史など「ナチス世界観」の注入に適した科目が教授されており,「夜間学校」以外にも音楽教育,現代詩朗読会,国内外の文化視察旅行,巡回文庫などが実施されていたという.  記事Cは,この部が傷病兵慰問事業として,負傷して快癒した兵士の精神を高揚させ,彼らに新たな「仕事を授ける」ための講座を開講していることを取り上げており,この部の活動においても「スポーツ」部と同様に傷病兵を対象として,彼らの精神的回復と新たな就職のための学習機会を提供していることが窺える. 5. 「労働の美」部の活動  記事@は,「労働の美」部が「職場を美化し,その中に勤労の歓びを導き入れ,『歓びを通じての力』の思想を実現しようとする」「労働美化運動」を推進し,職場「に於ける採光,換気の状態,騒音塵芥及び暑熱の状態等が調査され」,問題がある場合には改善を図っていることを紹介しており,KdFが余暇の活動だけでなく,職場の環境改善によっても国民に「歓び」をもたらそうとしていることが見て取れる.  記事Cでは,戦時下でもこの部の活動が等閑視されることなく,「工場に暖かい食事」「よい光線を与えよ」「健康なる空気を」等々の運動が一層強度に推進され,約8500万マルクがこの部の活動のために投資されたことが報告されている. Y. おわりに  本稿の目的は,日本厚生協会の機関誌『厚生の日本』に掲載されたKdFに関する記事の中でKdFの目的,組織構造,実践活動がどのように報告されていたかを明らかにすることであった.  『厚生の日本』に掲載されたKdFに関する記事は,KdFの目的や組織構造よりも,実践活動の紹介に重点を置いていた.  KdFの実践活動は,様々な種目に取り組むスポーツ,国内外の旅行,ハイキングから,演劇や歌劇の観賞,職場の美化,ナチ党の世界観を注入する教育に至るまで,広範な領域に及ぶものとして紹介された.  国内外の旅行を除けば,戦時下においてもKdFの活動は継続し,戦線で戦う兵士にも音楽や演劇,傷病兵にもスポーツや教育を提供していたことが取り上げられている.  戦時下においても余暇活動を通じた「歓び」の享受を否定することなく,「歓び」を通して戦時を生き抜く「力」を国民に得させようと試みるKdFの活動を『厚生の日本』は報じていたのである.  今後は,『厚生の日本』で紹介されたONDやKdFに関する記事内容と,日本厚生協会が展開する厚生運動を比較しながら,日本の厚生運動がONDやKdFから受けた影響,あるいはそれらとは異なる日本の厚生運動の独自性を検証していくことが課題となるが,これについては他日を期したい. 注 (1) 厚生運動の中核団体となる日本厚生協会設立の直接的契機は,1940年に東京オリンピックとともに,第四回世界レクリエーション会議を日本で開催することが決定したことにあった.この会議の受け皿となる国内協会の結成が先決問題となり,協会設立の準備は東京市主事の磯村英一を中心に進められていった.この過程で,レクリエーションの訳語に,設立間もない厚生省に因んだ「厚生」という語が当てられた.1938年4月に日本厚生協会の発起人総会・創立総会が開かれ,日本厚生協会が誕生したのであった.この設立の経緯については,磯村(1939)<上付>7)の著書を参照. (2) 日本の厚生運動については高岡(1997)<上付>9)と藤野(2000,2003)<上付>2)3)の研究を参照.高岡は戦時期日本における権力と都市の相互関係を追究していくために,また藤野は日本ファシズムにおける「人的資源」の培養・動員の特異性を解明するために,厚生運動に着目している. (3) 第一回世界レクリエーション会議は,1932年のロサンゼルス・オリンピックと同時期に,同市で開催された.続く第二回は1936年にドイツのハンブルクで開かれ,その折,第三回を1938年にイタリアのローマで,第四回を1940年の東京オリンピックに合わせて日本で開くことが決定された.KdFの存在を世界にアピールする舞台となったのは,1936年の第二回大会である.また,1940年に日本で開催予定であった第四回大会は,日中戦争の長期化によりオリンピックとともに中止となった. (4) 日本厚生大会の第一回は東京(1938年),第二回は名古屋(1939年),第三回は興亜厚生大会と銘打って大阪(1940年)で,さらに1942年には日本厚生協会の主催ではなかったが,満州で東亜厚生大会が催されている.日本厚生大会の内容については,都筑(2011)<上付>13)の研究を参照. 引用文献 1) Bernett, H. (1979) Nationalsozialistischer Volkssport bei“Kraft”durch Freude, Stadion V(1):89-146. 2) 藤野豊(2000)強制された健康 日本ファシズム下の生命と身体,吉川弘文館,東京. 3) 藤野豊(2003)厚生省の誕生 医療はファシズムをいかに推進したか,かもがわ出版,京都. 4) 権田保之助(1941)戦時下に於けるK.d.Fの活躍,厚生の日本 3(4):11-16. 5) 保科胤(1939)独逸の厚生運動,厚生の日本 1(1):146-153. 6) 保科胤(1940)戦争と慰楽 銃後ドイツ国民生活の一断面,厚生の日本 2(9):38-43. 7) 磯村英一(1939)厚生運動概説.常盤書房,東京. 8) 園田碩哉(1989)厚生運動の研究−『厚生の日本』誌の記事分析を通じて−,自由時間研究 3:10-16. 9) 高岡裕之(1997)総力戦と都市−厚生運動を中心に−,日本史研究 415:145-170. 10) 田野大輔(2009)余暇の枢軸−世界厚生会議と日独文化交流−,ゲシヒテ 2:21-39. 11) 田野大輔(2011)日本の歓喜力行団−厚生運動と日独相互認識−,甲南大学紀要 文学編 161:109-121. 12) 津川主一(1941)独逸に於ける国民生活と音楽,厚生の日本 3(3):24-32. 13) 都筑真,淺野哲也,村井友樹ほか(2011)戦時下における日本の厚生運動−厚生大会(1938-1940)を中心として−,筑波大学体育科学系紀要 34:27-43. 14) 都筑真,村井友樹(2013)日本厚生協会のドーポ・ラヴォーロへの眼差し−『厚生の日本』を手がかりとして−:体育スポーツ史にみる戦前と戦後(真田久ほか編著),道和書院,東京. (平成28年9月16日受付 平成28年10月26日受理)